まるはちブログ

東京からパリへ。次へ!というより一回休む、かなぁ。

バルカン旅行

旅程

1/14夜 パリ→イスタンブール

1/27夕方 ブダペスト→パリ

14日間でトルコからハンガリーまでの間の国(主にバルカン半島の国々)を周った。訪れた国は、トルコ、ブルガリアマケドニアコソボアルバニアモンテネグロクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナセルビアハンガリーの10カ国。ほぼ毎日国境を超えてバス移動していたのでだいぶ大変な旅だった。

移動手段は、パリ→イスタンブール、トルコ→ブルガリアセルビアハンガリーが夜間で、あとは昼間のバスだった。夜行バスとか夜行列車は非常にしんどいということが身にしみてわかった。

線引きできないバルカン

陸に引かれる国境線

国境を陸路で越えることが多い(というかそのほうが普通)なヨーロッパを旅行すると、国境は非常に不思議な線だなと感じる。特にストラスブールの東のフランスードイツ国境を歩いて渡ったときに強く感じた。EUがある今ではフランスードイツ国境なんてただの小さな川にかかった橋に過ぎず、そこに"国"を感じさせるものはなにもない。でも統治の力は末端の末端まで行き届いていて、川のあちらとこちらでは話す言葉も雰囲気も違う。

"国"という言葉から連想されるものはまず旗だけど、その次くらいに国の形があると思う。日本ならあの長細い形だし、フランスだと"hexagone(六角形)"が"フランス"の同義語として使われる。そのイメージが強いので国は地理的に成り立って、その土地に住む人が"国民"になるのだという印象を持っていた。でも実際にその"hexagone"の外周の線に行ってみるとそこには地理的にドイツとフランスを区別する特徴はない。セーヌ川の右岸と左岸くらいの分離でしかない。人が住んでいなかったらそこは単なる小さな川としか認識されないと思う。と考えると順序は逆で、"国"や"国民"という概念が先にあって、フランス国民が住むエリアが線引され、フランスの六角形を作っているというのが正しい気がする。川のこっち側だからフランス、なのではなくて、フランス国家の支配を受けたフランス国民が住んでいるからここまでがフランス、なのだ。

所詮人間が影響を与えられるのは人間だけなので、国の統治機構が支配できるのも人間だけ。その土地の人に強制/教育して国民としてのアイデンティティを持たせ、軒先にフランス国旗を掲げさせることで初めてそこがフランスになるのだなと感じた。国という概念は自然の土地の上に薄ーくかかった人工的なレイヤーに過ぎなくて、衛星写真で見たら国なんて全く判別できないのである。樹木の生育地帯、犬の縄張り、細菌叢など、土地の上には無数の地図のレイヤーがあって、人間の国家もそのうちの一つに過ぎない。中世なら城壁、現代なら国境線、あるいは民家のブロック塀もそうかも知れないけど、人が躍起になって自分の領域に沿って物理的な障壁を設けるのは、自分の領域という自分の存続に関わる概念が、人間の考えついた貧弱な概念であることを恐れているからなのかもしれない。壁を作って、「ほらね、見ての通りこっちは私の領域でそっちがあなたの領域だ」と言えるようにしないと"自分の土地"という概念の存続が危ぶまれるからだろう。そもそも"自分の土地"ではないのだから。近隣との関係性の中で国家が安定していると物理的な障壁の重要性が薄れ、国家のアイデンティティが脆弱なときには尊大な壁を作るのは、たぶんそういうことだろう。

バルカン半島に引かれた国境

バルカン半島オスマン帝国の解体以降、何度も戦争が起きている。ダイバーシティが盛んに称賛されている現代の視点から見ると、オスマン帝国は非常に"現代的"な国家だった(近代が"現代"だった時代には非常に前時代的な国家とみなされていたはずだけど)。それゆえに民族分布はまだら模様のようになっていて、特にスラブ人とオスマン帝国の間で取り合いが続いたバルカン半島では様々な民族が共存する社会が成り立っていた。民族間の差異が統治と結びついていない時代には衝突も少なかったようだが、オスマンが解体され、そこに民族国家という概念が西欧から流入すると昨日までの隣人が突如として敵と化す(文字通り隣人同士で銃を取り合った地域もあったそう)。こうしてバルカンでは多様性の許容から同質性の追求へと意識が変化して線引きと民族浄化が繰り返されることになる。

各所での紛争の結果、ユーゴスラビアは解散して今の国境線が確定している。その過程は血みどろで、ボスニアではセルビア人によるボスニア人の虐殺(スレプレニツァの虐殺)が起き、逆にコソボではセルビア人が迫害されて追放されている。対立する民族に対する感情が未だに激しいと感じたのはまずボスニア・ヘルツェゴビナで、セルビアコソボ問題で対立が激しかった。

国境線が引かれ、国が分けられたわけだが、結果的にそれが幸せだったのかはよくわからない。サラエボの人道の罪に関する云々の博物館にあった作品が印象に残った。木の下で人が物思いに耽るという作品だったのだが、そのキャプションには「戦争で荒れた土地がもとと同じに戻ることはないように、戦争が終わっても人の心には戦争の傷跡が残り続ける」と書かれていた。民族による国が形成され、バルカン半島に多数の国境線ができたが、彼らの持つ"国家"の概念の裏には殺し殺された記憶がつきまとい、その記憶ゆえに国は対立し、国境を大きな壁で固めなければならないのかもしれない。

行く前に水脈速みを改めて聴いて、さぞきれいな土地なんだろうなと思って行ったのだけれど、雪をかぶった険しい山もそこを流れる鮮やかな緑色のきれいな川も山の直ぐ側に広がる海も、予想以上に美しかった。移動中に見る美しい景色と、到着した都市で見る戦争の歴史のコントラストが強烈で、水脈速みの訳分かんないくらい強烈なコントラストはまさにこれを表現してたんだなぁと感じた。